2021.04.05 Monday
ぜんぶわすれる/昨年の活動
今年初投稿になります。3ヶ月も経ってしまいましたが本年もよろしくお願いいたします。
SNSにはなんらか書いていますが、どうもまとまった文章を書く気が起こりませんでした。
時間が経ってしまいましたが昨年の展示についてお伝えします。
喫茶“ぜんぶわすれる”
会期:2020年9月5日(土)〜9月13日(日)
会場:ギャラリーカメリア(東京・銀座)
昨年9月頭に銀座1丁目のギャラリーカメリアにて「ぜんぶわすれる」という喫茶イベントが開催されまして、久しぶりにタイポ作品を発表する機会になりました。茶人であるギャラリーオーナー原田直子さんと、数年間某お茶メーカーのアンテナショップでアルバイトをしながらお茶修行してきた妻・斎藤ちさと(アーティスト)によるコラボレーション企画なのですが、東京の感染状況を見ながら延期を繰り返してやっと開催にこぎつけました。
「ぜんぶわすれる」の意味はコロナからの現実逃避ではなく、お茶を飲む時には他のことを忘れて完全にお茶に集中する、という茶の湯の精神に基づいていますので誤解なきよう。
下記、斎藤のブログで詳細な内容がご覧いただけますので、ご興味ある方は読んでみてください。
「ソーシャルディスタンスに配慮した」お茶会は可能だろうか?
※昨年春のそもそもの計画。
http://cs-diary.geppei.com/?cid=60857
喫茶《ぜんぶわすれる》室礼
喫茶《ぜんぶわすれる》お茶の記録
喫茶《ぜんぶわすれる》のお知らせ
http://cs-diary.geppei.com/?cid=60860
↑室礼(しつらい)というのは、茶室内の装飾のことですが、今回のタイポ作品は二の席(奥の部屋)の室礼として展示していただきました。上記リンクから作品を御覧ください。
・・・・・
お茶は禅と関係が深いです。様々な芸道には宗教的バックボーンがあると思われますが、茶道の精神は禅そのものと言ってもいいでしょう。言葉による説明を嫌う禅がその精神を茶室という空間、そこでの人間同士の関係性、「手前」と呼ばれる複雑な作法、茶道具、などに置き換えたとも考えられます。
「喫茶去(きっさこ)=まあ、お茶でも一服召し上がれ」という有名な禅の公案がありますが、相手が誰でもどういう状況でも同じく「喫茶去」と言って接することによって、分別を捨てて二元論から離れる禅の精神をうまく表したものです。
仏教語を多くモチーフにしてきた自分としてはとてもありがたい機会で、早めに取りかかったのですがなかなか苦戦しまして、完成したタイポは予定より少ない点数でした。自分の作品が多くの分別によって作られているという矛盾と向き合う時間でもありました。しかし試行錯誤の中から枯山水をミニマルなドットやストライプのパターンの組み合わせで表現したり、タイポ以外の表現が生まれたことは大きな収穫でした。
また構想段階から、茶の湯の歴史、茶の湯と禅の関係、など勉強できたことも今後につながるインプットになったと思います。
SNSにはなんらか書いていますが、どうもまとまった文章を書く気が起こりませんでした。
時間が経ってしまいましたが昨年の展示についてお伝えします。
喫茶“ぜんぶわすれる”
会期:2020年9月5日(土)〜9月13日(日)
会場:ギャラリーカメリア(東京・銀座)
昨年9月頭に銀座1丁目のギャラリーカメリアにて「ぜんぶわすれる」という喫茶イベントが開催されまして、久しぶりにタイポ作品を発表する機会になりました。茶人であるギャラリーオーナー原田直子さんと、数年間某お茶メーカーのアンテナショップでアルバイトをしながらお茶修行してきた妻・斎藤ちさと(アーティスト)によるコラボレーション企画なのですが、東京の感染状況を見ながら延期を繰り返してやっと開催にこぎつけました。
「ぜんぶわすれる」の意味はコロナからの現実逃避ではなく、お茶を飲む時には他のことを忘れて完全にお茶に集中する、という茶の湯の精神に基づいていますので誤解なきよう。
下記、斎藤のブログで詳細な内容がご覧いただけますので、ご興味ある方は読んでみてください。
「ソーシャルディスタンスに配慮した」お茶会は可能だろうか?
※昨年春のそもそもの計画。
http://cs-diary.geppei.com/?cid=60857
喫茶《ぜんぶわすれる》室礼
喫茶《ぜんぶわすれる》お茶の記録
喫茶《ぜんぶわすれる》のお知らせ
http://cs-diary.geppei.com/?cid=60860
↑室礼(しつらい)というのは、茶室内の装飾のことですが、今回のタイポ作品は二の席(奥の部屋)の室礼として展示していただきました。上記リンクから作品を御覧ください。
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お茶は禅と関係が深いです。様々な芸道には宗教的バックボーンがあると思われますが、茶道の精神は禅そのものと言ってもいいでしょう。言葉による説明を嫌う禅がその精神を茶室という空間、そこでの人間同士の関係性、「手前」と呼ばれる複雑な作法、茶道具、などに置き換えたとも考えられます。
「喫茶去(きっさこ)=まあ、お茶でも一服召し上がれ」という有名な禅の公案がありますが、相手が誰でもどういう状況でも同じく「喫茶去」と言って接することによって、分別を捨てて二元論から離れる禅の精神をうまく表したものです。
仏教語を多くモチーフにしてきた自分としてはとてもありがたい機会で、早めに取りかかったのですがなかなか苦戦しまして、完成したタイポは予定より少ない点数でした。自分の作品が多くの分別によって作られているという矛盾と向き合う時間でもありました。しかし試行錯誤の中から枯山水をミニマルなドットやストライプのパターンの組み合わせで表現したり、タイポ以外の表現が生まれたことは大きな収穫でした。
また構想段階から、茶の湯の歴史、茶の湯と禅の関係、など勉強できたことも今後につながるインプットになったと思います。