バンドウジロウ(タイポグラフィ作家/グラフィックデザイナー/音楽家)のブログ。
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ウイリアム・ケアリ
「十字式健康法」という治療法があります。
キリスト教系の「十字式健康普及会」という組織がやっているもので
気功(外気功)のようなものなのですが、
疲労がたまったときに、時々お世話になっています。

コンピュータを使ったデザインワークは、つい姿勢も悪くなり、
肩・首・腰・眼などに支障が出てくるのです。
さらに、アコースティックギターを弾くときの体勢が
極端に足を組む形で、どうしても身体に負担がかかるのです。

会場の待合室には
キリスト教関係のマンガが数冊置いてあるのですが
待ち時間にこれを読むのを楽しみにしています。
自分は基本的に仏教の影響を受けていますが、
世界3大宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム経)についても
偏見無く平等に勉強したいと思っていて、
聖書も少しづつですが、旧約から読んでいます。

ここの治療を受けるのに、
クリスチャンである必要はまったくありませんが
困ったときだけ「神頼み」になる考えは好まないので、
意識的にキリスト教の世界にも触れようとしているのです。

今読んでいるのが
「ウイリアム・ケアリ物語/Calling(らみいコミックス)」。
18世紀末にイギリスからインドへ渡り、
プロテスタント初のインド宣教師となった人物の話で、なかなか感動的です。
自我を捨てて神に全てを託してしまう生き方って
一見きついようでも、結果的には「楽」なんだなあ・・
と、思わざるを得ません。

キリスト教、インド、カルカッタ、というと
やはり「マザー・テレサ」を連想します。
ウイリアム・ケアリという人物は彼女の大先輩
ということになるのでしょうが、まったく知名度がない。
ネットで検索してもこの本に関するもの以外は
ほとんど出てこないのです。

気になるなあ・・。
雪舟の「慧可断臂図(えかだんぴず)」
東京国立博物館にて「対決 巨匠たちの日本美術」展を観ました。自分は、2000年秋の「伊藤若冲(いとう・じゃくちゅう)展/京都国立博物館」を観て日本美術に開眼したわけですが、今回は日本美術史のエキスを凝縮したような展示で楽しめました。特に「雪舟」作の「慧可断臂図(えかだんぴず)」をはじめて観ることができて良かった。これは面壁する「達磨(だるま)」に「慧可(えか)」という修行者が弟子入りを求めている場面を描いた宗教画です。後に第二祖となる慧可の右手には、決意を表すために斬り落とした自分の左手が・・、というすさまじいシーンなのですが、とても静けさを感じる絵です。「禅」の開祖として有名な達磨は、6世紀初頭(推定)インドから中国に渡って仏教の布教活動をした人。雪舟は室町時代の「禅僧」で中国にも行っています。

赤瀬川源平さんが「日本美術応援団(日経BP)」の中で「不器用だが妙に惹かれる絵」という趣旨の話をされていますが、まさにその通りでした。主人公の衣が大ざっぱに描かれているのに対し、背景であるはずの岩がやたらと精密に描かれている。しかも達磨と岩との前後関係はかなり無理があってぎくしゃくしている。今回実物を鑑賞して自分なりの解釈をしてみました。

ひたすら壁に向かって座禅する達磨はすでにあっち(悟り)の世界に居る人。もはや「肉体」などあってないようなもの。リアルな岩の描写が「物質性」の表現とすれば、幻のような達磨のからだの輪郭線は、悟りに至った人間の高い「精神性」を表しているのでしょう。

座禅修行
先日読経の話をしたので、某禅寺での体験を元に「座禅」の話をします。現代においては、諸宗教における修行のみならず、リラクゼーションや速読法などでも様々な「瞑想」の技術が取り入れられています。仏教の「禅」における座禅も瞑想の一種ですが、思いやイメージを消して「無」の境地をめざすタイプです。もう一つのやりかたは、逆になんらかのイメージを強く思念していく方法(誘導瞑想など)です。

座禅のルールは一つだけ。「座って、動かず、思考も止める」ことだけなのですが、これがなかなか難しい。「思考を止めよう」と思えば思うほど、様々な思いが湧いてきてしまうものです。この時点で謙虚になれれば、「人間とは自由な存在ではない」という学びを得ることができます。自分の思考すら自分でブレーキをかけることはできないのですから。

対処法としては、まず意識をなにかに集中してみます。自分の呼吸を数えたりするのです。大きく腹式呼吸しながら呼吸を数えてみる。一つ〜五つぐらいまでゆっくり数えてまた一つから。これを「数息(すそく)」と呼びます。あとは何らかの呪文(マントラ)を頭の中で延々繰り返して唱えてみたりします。「南無観世音菩薩(な〜む〜かんぜ〜おんぼ〜さ〜」とか・・。これらはなかなか効果的で、慣れてくると「あ、いまなんにも考えていなかったな・・」という状態が数秒〜数十秒ぐらいは体験できます。そうなるとかなり気持ちがよいです。

とはいっても基本的には「修行」ですから楽ではありません。当然、冷暖房なし、冬でも堂内は裸足です。自分は気合いを入れるためにあえて冬に始めたのですが、やはり辛かった。

あと、堂内は私語禁止ですから参加者同士で言葉を交わすこともありません。何度も通えばお互い顔は覚えるわけですが、一度も話はしたことがない。これはネット上の掲示板やコミュニティとは対極の世界です。ネット上では名前や顔を知らない人同士でも会話をする。しかし座禅のときは全員の顔は見えていても全く会話はない。それでもお互いの存在を感じ「修行者として同じ方向(ブッダの方向です)を向いている。」という信頼感が漂っているのですね。自分はその感じが好きです。

日常の雑事や過剰な情報から一瞬離れる貴重な時間でしたが、気がつけば「意味」や「目的」といったものすら忘れて打ち込んでいる、「修行」とはそういうものなんだろう、と感じました。
読経のすすめ
MySpaceにアップした楽曲で思い切り「読経(どきょう)」しているのでその話をします。読経とは字の通り「お経」を声を出して「唱える」こと。ほとんどの宗教で聖典を読むだけでなく唱える習慣があると思います。自分は一昨年、都内某禅寺の日曜座禅会に通っていたのですが、そこで始めて読経を経験し、意外にも気持ち良かったので、はまってしまいました。(※一般向けの座禅会は通常、座禅・読経・説教などがセットになっています。)

いろいろ効用があると思うんですが、まず大きな声を腹から出すと言う点。歌と同じく腹式呼吸になるので結果的に脳にたっぷりと酸素を送ることになる。当然健康に良い。

あと「お経」というものは「釈迦」の教えを弟子達が何代もの長い年月の間にまとめていったものですが、基本的に浄化を目指すポジティブな内容が多い。精神科医の「斎藤茂太」さん始め多くの方が、毎日ポジティブな言葉を発することが自分の脳に好影響を与え、結果的に心身共に健康へ向かう、ことを科学的に論じられている。仏教嫌いな方は、例えば「聖フランチェスコの祈り」でも何でもかまわないわけですが、いい言葉を口ずさむ習慣は心と身体に良いようです。

ちなみに、メロディがあって詞の意味もはっきりとわかる「Jポップ」などを聴くときと、すぐには意味がわからずわかりやすいメロディもない「お経」を聴くときとでは、脳のモードが変わるそうです。前者が「論理的覚醒状態」に向かい、後者は意識の台頭をおさえ「瞑想状態」へ向かう、ということで、読経→座禅(瞑想)という流れが科学的にも理にかなったものなんですね。

MySpaceにアップした「唱えろ!比類なきこのマントラ」で取り上げているのは、有名な「色即是空(しきそくぜくう)」というフレーズが入っている大乗仏教経典「般若心経(はんにゃしんぎょう)」です。内容は大変高度なので一口では説明できませんが、仏教の精髄である「空性(くうしょう)」についての解説です。


shiki-soku
ラマナ・マハリシ
 このところ、寝る前にヒンドゥー教の聖者「ラマナ・マハリシ(1879〜1950)」の対話本をパラパラ読んでいます。仏教のルーツは当然「ヴェーダ」を聖典とする「バラモン教(今のヒンドゥー教)」なわけで、多少は勉強しないとそこから生まれたブッダの思想が見えてこないのです。自分にとってラマナは今のところブッダの次に重要な聖者。17歳ぐらいで家出同然に「アルナーチャラ」という聖地に向かい、その後一銭のお金を持つこともなく、ほとんどふんどし一枚で一生を過ごした人です。文章もわずかしか残さず、弟子によるバイオグラフィーや対話本が残るのみ。昨年「沈黙の聖者(出帆新社)」というバイオグラフィーを吸い込まれるように読んでからは、対話本を少しずつ読んでいます。
 個我(エゴ)の対極である「真我(アートマン)」の探求が基本テーマになるのですが、これはほんとうに難しい。ラマナ曰く「”私” という想いが消えた状態」ですから・・。「真我に至りたい」という気持ち自体がすでにエゴなわけです。瞑想などでもある程度自我は抑えられますが、自分の場合はむしろ仕事、制作、演奏などに没頭している時が最も「真我」に近づけている気がします。
仏教は科学的
連休中は体調が悪く(&仕事もあり)あまり出歩きませんでしたが去年から読んでいた、河合隼雄と中沢新一の対談集「仏教が好き(朝日新聞社)」をやっと読み終えました。膨大な知と柔軟な思考力を持つお二人のキャッチボールはなんともスケールが大きくて面白かった。自分は単なる「ブッダのファン」から始まって仏教を少しずつ理解するにつれて「宗教」というより「思想・哲学」だと思っているのですが、この対談では一神教と比べて仏教は「科学的である」という結論に至ります。また、現代日本の不幸を、「キリスト教的世界観の上に作られた(欧米の)経済や社会のシステムを、キリスト抜きで受け入れてしまった」ことに集約して、信仰なき社会の問題点を突いていますが、これはホントに共感します。

P.S.文庫になりましたね。(6/11記)
悪人の自覚
 仏教関係の本はここ2〜3年いろいろ手を付けていますが、学術的研究をするわけではないので読みやすいものに手が伸びます。最近読んだ中でベストは、弁護士であり熱心な仏教徒でもあった遠藤誠氏(2002年没)の「般若心経-for biginners(現代書館)」。般若心経の解説本は何冊か読みましたが、短いお経ゆえ必然的に「寄り道」が多くなり著者の個性がダイレクトに出てきます。これは「ロックな仏教本」でした。遠藤氏は弁護士という仕事を、人間の欲望と執着ゆえにメシが食える「釈迦の教えに真っ向から反した職業」と自認されている。そこから出てくる言葉はリアルで辛辣。こうした「悪人の自覚」は宗教者として基本だと思います。仏教の伝道で知られる作家諸氏、岡本かの子(岡本太郎の母)、瀬戸内寂聴、五木寛之、などいずれも悪人の自覚(罪の意識)から仏門に入られている。さらに梅原猛、河合隼雄など仏教に造詣が深い知識人の多くもこの意識を強く持たれています。そして今挙げた方々の人相にもそうした厳しさが表れている。
 佐藤優氏によると、現代日本において罪の意識を持ち得るのは「上流」と「最下層」のみで、その中間層は(世間様に対する)「恥の意識」しか持ち得ないという。上記の方々は全員「罪の意識を持ち得る上流階級」だと言えるかもしれません。
 遠藤誠氏の話に戻ります。どの宗教も本来「法律」以前の「法」として機能していました。仏教は明治まで「仏法」と読ばれていたわけですから、遠藤氏のように「法律の専門家であり宗教者でもある」というスタンスはとても理にかなったことだと思うのです。
日本人の信仰
「世界」を料理にたとえるなら「出汁」にあたる部分が「宗教」「信仰」だと思っています。それらは各料理の味を決定的に方向付けしているのですが「目に見えない」ために見過ごされることも多い。井沢元彦氏の「日本史入門講座(徳間書店)」は、自分が制作の中心テーマにしている「宗教」「信仰」の問題を中心にして日本史・世界史を語ってくれるので非常に面白くて引き込まれます。例えば、聖徳太子時代の日本3大建築の大きさがそのまま信仰対象の順位を表しているという大胆な仮説↓

<一位>出雲大社=和の精神(話し合い教)
<二位>東大寺大仏殿=仏教
<三位>平安京大極殿=天皇(神道)

オオクニヌシを祀る出雲大社がなぜ和の精神(話し合い教)を表すかと言えば「アマテラスに国を譲れと言われた際、争わずに献上した」という神話に基づいているそうです。そしてその「話し合い教」は「護送船団方式」や「談合」といった形で受け継がれているということですが、なるほどと思います。ちなみに自分は、人間とはみな何かを「信じる」「信仰する」ことで生きている動物だと常々思っています。たとえ「無宗教」と自覚している人でも無意識に何らかの信仰(心のよりどころ)を持っているはず・・。井沢氏の説は、日本人が無意識に受け継いできた「信仰」を掘り起こしていて自分にはとても納得がいきます。